まる2号(中学校編)
いよいよ中学編だ。
まさかの書くのに1ヶ月空いてしまった。こういうところは本当によくない…
ここについてはビックリするほど記憶がなく久しぶりに同級生と会って話をしても全く話が噛み合わない…
ただここでは僕の人生のターニングポイントであろう挫折をするので、そのことはしっかり書きたい。
中学でも真面目な性格だったと思う。
ただ、勉強は少し苦手になってきて、その代わりにバスケとおふざけに意識が向いていった。
バスケにはかなり執着していたしプロにもなりたいと思ってた。
だから部活だからといってそんなに頑張らなくてもいいやとか、辞めてもいいやとか考えてるやつに対してはふざけんなと思ってた。
(当時の話…)
なんなら生活の中でもバスケを意識した。
栄養について勉強する、ご飯は左手で食べる、視野を広げるために普段もキョロキョロと周りを見る…
ほんとにのめり込み具合が凄まじかった。
僕らの頃から世間的に部活の時間を減らすような動きがあったけど、他にやれる場所を探して夜でもバスケをしていた。
僕の中学時代を一言で表してしまうと、”部活…以上”って感じだ。
今思うと、その時にしかできないこと、青春を、チャンスを相当逃してしまってたと思う。
(それもまたハオハルと信じよう…)
とはいうものの、いつも委員長的なことをやっていたし(実は1番楽なポジション)、クラスの人気者ではあったと思う。
3年の文化祭では、仮装大賞のようなものがあったんだけど「まるのボウリング」っていうタイトルで出て優勝したりしてた。
ただ、沢山思い出になるようなことがあったんだろうけど、ポロポロと年を追うごとに忘れていってしまって、今ではほとんど思い出に残ってることがない。
友達もあんまり思い出せない。(いなかった説すらある)
すごい軽い気持ち、小手先で生きていたんだろうなと今となっては思う。
(それでも当時は一生懸命に生きていたんだと思う)
そして、挫折の話。
これだけはめちゃめちゃ覚えてるし事細かく起きたこと、その時の感情を思い出せるから人生の中でもかなりの挫折だったと思う。
まず、大前提に僕はその頃、バスケだけが全てだった。
相当のめり込んでいたしチームも県内では常に上位にいて、地方大会にも出場するレベルだった。
僕は1、2年の時、全く芽が出なかった。
小学校の時の蓄えがあったから中学から始めた素人には負けなかった。
けども、一緒にやってきたやつはどんどん上手くなっていって、後輩にもユニフォームを奪われるなんてこともあった。
ただ、僕はそんなことはどうでもよく(悔しかったし正直どうでもよくない)、3年の大会で圧倒的な成績を上げて、バスケの有名校の工業高校に行って、プロになる…
そんなサクセスストーリーを思い描いていた。
そんな思いでやり続けていたら、2年の終わり頃に自分でも成長を実感できるようになっていた。
コーチにも「今はまだ踏ん張り時だけど、いずれ絶対使う」などと期待の言葉をかけてもらうようにもなった。
自分の思い描くストーリーにやっと軌道が乗り始めた。
自分が思うようにコトが運び出していった。
そう思ってた。
だけども、左膝に大怪我を負った。
頭が真っ白になった。
人生の全てだったもの、それが上手く進み始めて人生も軌道に乗ってきた。
そんな風に思えていた…
けど、一瞬で崩れ去った。
僕が立ち直るのには、心身ともにそれなりに時間がかかった。
(ラグビー選手がなるような怪我と言われてた。)
そんな僕を見ていた恩師は、落ち込んでばかりいる姿を見かねて、こうアドバイスをくれた。
「まる、落ち込んでばかりではよくない。天は乗り越えられる人にしか壁を与えない。今できることを一生懸命にやってみたらどうだろう?」
ありがちでありふれた言葉と思うかもしれない。
でも、この言葉にかなり救われた。
こういう言葉掛けをあえてしてくれる人は、本当に少ない。
今でも時々思うけど、やはり周りの人に恵まれている。
そして、この時僕の特徴である素直さがプラスに働いた。
中坊の僕が考え出した「今一生懸命にできること、すべきこと」は、3つだった。
チームのために働きかけること、
リバビリ・トレーニング、
勉強。
チームのためにという部分では、主に声掛けだった。
まだまだ浅はかでバスケを感覚的にやっていたからそれくらいのことしかできなかった。
それでもやった。
一生懸命に全力で。
リバビリ・トレーニングも全力だった。
1日でも早く復帰したかったから。
ただ、トレーニングの部分では、やり過ぎは身体に悪影響があるという知識はあったので、やり方とか栄養とか他のところで補えるように色々考えてやるようになった。
この時にスポーツというものを色んな観点から意識するようになった。
勉強については、正直嫌いだった。
実家の近くに県内トップの進学校があったけど、なんならその学校が嫌いだった。
勉強ができなかったということもあるだろうけど、勉強ばっかりしている人、いわゆるガリ勉がどうもかっこいいと思えなかった。
でも、全力でやった。
それはサクセスストーリーを思い描いていたからだった。
大学ではバスケの強豪校に行く。
そのためには、成績もなく無名の自分は勉強で入るしかない。
高校は勉強でトップクラスのところに入ろう。そうすれば、普通に勉強していてもバスケの強い学校に入れるだろう。
だとしたら、全力でバスケのことだけ考えて、高校生活を送れるだろう…
そんな安直にも思える考えだった。
当時はそれがベストな選択のような気がしていた。
恩師は沢山のことを教えてくれたけど、”孟母三遷の教え”ということわざ(意味は調べてください)もその内の一つだった。
そういう考えも素直に受け入れて、レベルが高い学校に身を置くことは間違いでないだろうと思っていた。
結局のところ、嫌いだった進学校を志望校にして勉強を始めた。
とはいえ、勉強は苦手意識があって成績についても平均以下であった僕にとっては、ハードルがかなり高い目標であった。
でも、一度バスケが消え真っ白になってしまった人生の中で実力がないとはいえ、はっきりと目標ができた。
浅はかではあったけど、自分で考え目標を決めてそれにしっかりとした目的もあったので、あとは頑張るだけだった。
(”ただ”努力すればよかった)
文字通り”やるだけ”だったので中学ながらも毎日10時間ほど勉強した。
学校でも塾でも使えるものは全て使ってやってたと思う。
寝る間も惜しんで(実際はちゃんと寝た)、バスケに注いだ情熱を全て注いだら見事に合格した。
我ながらあっぱれだった。
人生でもベスト3に入る成功体験だった。
この経験は僕にとってかけがえのない経験になった。
今までバスケばっかりやってきたけれども、少し視野を広げて、勉強を頑張って授業も真面目に受けていると自分が知らない世界・考えが腐るほどあった。
それを知ることはとても豊かなことだと思えるようになった。
今でも集中すると周りが見えなくなってしまうタイプだけど、この成功経験があったから人の話もよく聞くし色んなことをやってみたい、色んな世界を見てみたいと広い視野で物事を見えるようになった。
怪我も負わず、あのままバスケバカとして、突っ走っていったら、今頃プロ選手としてやっていたかもしれないけど、まさにバスケバカになっていたと思う。
だから、今では恩師の言った通り天が与えた試練だったんだなーと純粋に思える。
それを乗り越えたのは僕にとって自信にも繋がった。
これが僕にとっての大挫折であり成功体験だった。
高校に入ればバスケやりたい放題だ、と意気込んでいたけど、おバカにとっては進学校というものはとんでもなかった…
ポイント
・そもそもあまり覚えてない
・人気者
・バスケへの執着
・相変わらず片思いで終わる恋
・大挫折
・恩師の言葉
・視野の広がり
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